2013年10月2日水曜日

東田直樹さん問題②

デリケートな問題なので、出来るだけ私見を挟まず、客観的に整理したい。

①まず、東田さんがFC(Facilitated Communication)を使っていること、そしてFCにはエビデンス(科学的な根拠)が無いという点。

現在の東田さんは、介助者が手を添えなくても文字盤やキーボードを使えるようなので、それがFCの範疇に入るのかどうか分からないが、『FCを使うことによって彼が内に秘めた高い知性を表出するにいたった』という主張なのは間違いないようだ。

よく誤解があるが、エビデンス(科学的な根拠)とは、メカニズムが解明されているという意味ではない。
「エビデンスがある=効果が確認された」、「エビデンスが無い=効果が確認されていない」といういことであり、「何故効果があるのか」ということは一切関係が無い。
およそ科学的とは思えない荒唐無稽な理論でも、効果が確認されれば「エビデンスがある」のだ。
平たく言うと「効果があるかどうか」、ただ本当にそれだけの話しなのだ。


例えば、奇跡の詩人のケース(『奇跡の詩人』で検索するとすぐに動画がヒットする)。動画を見ると懐疑的な印象を持つ方は多いと思う。

例えば次のような疑問がある。
母親が激しく動かす文字盤を、肢体に障害のある流奈さんがあんなにすばやく正確に指差せるのか? 流奈さんが文字盤を見ていないとき、ましてや寝ているときでさえ、FCが続くのはおかしいのではないか?

これらは、『奇跡の詩人』を信じない理由として十分に思えるかもしれないが、動画を「見たから信じない」というのは、「見たから信じる」と本質的に何も変わらない。


それならば、【言葉が無く歩くことも出来ない脳障害の子どもが、FCがあれば非常に高い知性を持ち文章を綴ることが出来る】という主張を、【言葉が無く歩くことも出来ない脳障害の子どもが、FCがあれば非常に高い知性と運動機能を持ち、例え寝ている間でも文章を綴ることが出来る】に変えればいいだけの話だ。
こういう辻褄合わせは、「インチキ」にはよくあることだ。
(そんなの誰も信じないと思うかもしれないが、どんなに無茶な主張でも手口が巧妙であれば案外簡単に信じられるものである)

例えどんなに荒唐無稽な主張でも、公正な検証のもとで事実が確認されれば受け入れなければならないのが科学だ。その分野の世界中の研究者がお墨付きを与えることになるので、検証方法は非常に厳密で厳しい。
どんな療育方法であっても、効果があるというのならそれを示す(=エビデンス)責任がある。 
「効果はあるがその証明は出来ない」というのなら、それは詐欺と言われても仕方ない。
しかし、残念なことに一部の療育法は、手ごわい研究者達を相手に効果を証明できないので、親を相手に「効果があると錯覚させる」方法を選んでいる。


FCに関しては奇跡の詩人の動画に関係なく、「効果が無い」という検証結果はあるが、「効果がある」という検証結果はない。
『エビデンスがあるかどうか』に真偽を委ねる人は少ないが、実際に見たことや体験したことで真偽を判断する人は多いだろう。
それは自然なことなのだが、人間は間違う生き物だということを肝に銘じて欲しい。
だから公正に検証する姿勢やプロセス(=科学)が必要なのだ。

だからこそエビデンスは、間違った通説や療法を指摘する武器になるのである。
最近では親学なんてのもあるし、冷蔵庫マザーみたいな昔の悲劇を繰り返しちゃならんのよ。



ちなみに、海外では知的障害を持つ女性がFCによって父親を訴えたケースがあるそうだ。
しかし、1989年12月の「The Carla Case」という裁判を契機に下火になったという。 知的障害を持つ女性(正確にはその援助者)が、FCによって、父から性的虐待を受けたと訴えたのである。裁判所は家族を崩壊させるかどうかの問題だから、当然にFCの実証を求めた。ヘッドフォンを子どもと援助者に装着し、別の質問をしたのである。結果は本人はアルファベットさえ理解しておらず、FCによってコミュニケーションなどとられていないことが明確になったのである。 (滝本太郎・石井謙一郎:「異議あり奇跡の詩人」,同時代社,p111-p112)

余談になるが、FCによって表出される内容が、本人によるものかどうかを確かめるだけなら割と簡単そうだ。上記の方法でなくても、要は本人しか知り得ないことを表出できるか確かめればいいだけだ。
FCをやっていて、文字を書けるようになったり、自発言語を獲得した場合、それがFCの効果かどうか検証するのはもう少し手間がかかる。知的障害の人だって、(当然だけど)発達するのだから 。
その場合、FCをする群と、FCをしない郡を比較して発達の程度に統計的に有意な差を示す必要がある。

もう一つ余談。まだエビデンスという言葉が無かった時代。
アメリカの初代大統領ジョージワシントンは、67歳のある朝風邪をひいた。容態が改善せず、3人の医師が数回に分けて2リットルと3分の1の量の血液を抜いた。当時は、瀉血と呼ばれるこのような医療が当たり前だったが、今の医学に照らし合わせると多量の出血が死因と見られているらしい。

大統領の治療に当たった3人の医師が師事し、当時アメリカでもっとも名を知られ、もっとも瀉血を奨励していたベンジャミン・ラッシュという人の人物像が興味深い。
彼は聡明で、高い教育を受け、思いやりもあった。依存症は治療すべき病気であることを明らかにし、アルコール依存症になれば飲酒をやめられなくなることにも気づいた。また、女性の権利のために声を上げ、奴隷制廃絶のために戦い、死刑反対の運動をした。だが、知性があり、立派な人物というだけでは、何百人という患者を失血死させ、学生達に瀉血を奨励するのをやめることはできなかったのだ。
古代の哲学を重んじる気持ちと、瀉血の使用を正当化するだけのためにひねり出した理屈のせいで、ラッシュは状況を見誤った。たとえば彼が、血液とともに患者の命まで流し去っているとは思わず、瀉血による鎮静作用を、まぎれもない改善のきざしと思い込むのも無理はなかったろう。おそらく彼は記憶を歪め、瀉血を受けたにもかかわらず生き延びた患者だけを記憶に残し、死んだ患者のことは都合よく忘れてしまったのではないだろうか。さらには、成功した例はすべて自分の治療のおかげで、失敗したのは、その患者がどの道死ぬ運命にあったからであって、治療のせいではないと思いたくもあっただろう。 (青木薫訳『代替医療のトリック』,p42)
後半部分は作者の推測であるが、人が陥りやすい思考パターンがかかれている。
信じていても、理解していても、それ自体には何の意味も無い。むしろ時に事実を歪める原因になってしまう。
ただ、「事実かどうか」を確認する姿勢こそが大切なのだと思う。

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